レンズ千夜一夜

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1940 奈良町(2017年10月4日エルマー50㎜F3.5なりの古色がついて)1


私はテレビ、新聞を観ないので、オリンピックのことなど、
お隣のご主人の誕生祝いという程度以下の感覚でしたが、
ネットで、時々、ふと気になるニュースが飛び込みます。
女子フィギュアで金メダルをとったザギトワ選手に対する批判。
演技後半のジャンプは1.1倍の加算がされる。
その後半にジャンプを集中したのはズルいというような趣旨のよう。
国際スケート連盟もこれを受けて、ルールを改正する方向らしい。

そこで、Youtubeでザギトワ選手の演技を観てみました。
ついでに、日本の選手の演技も拝見して、ため息。
ああ、ザギトワ選手の演技はジャンプも含めて、
最初から最後まで美しい舞になっている!
その批判の的となっている後半のジャンプも、
完璧な舞踏のクライマックスとなっていて
美しさも技術度も日本の選手とは桁違い!

私はフィギュアスケートのことなど全く分かりませんが、
後半のジャンプに加点するのは、
前半で心身が疲れきった選手たちにとっては、
後半に難易度の高いジャンプをすることが至難だからでは?
誰もがこのルールを利用できます。
後半に難しいジャンプを持ってくれば、点を稼げるのです。
でも、どうやら誰もそんなことはしなかったのでは?
なぜ?
体力的にも精神的にも技術的にも無理だったからでは?
ところが、ザギトワ選手は、蝶のように、白鳥のように、
軽々と飛び続け、跳躍をアートにすることに成功しています。
これほどに芸術とスポーツが見事に融合した演技は、
オリンピック史上稀なのではありませんか?

8年前、バンクーバーオリンピックのときはテレビで見ました。
浅田真央選手もすばらしかったけど、
残念ながら、アートではありませんでした。
キム・ヨナ選手はちがいました。
技術的には浅田真央選手に引けを取るようですが、
とにかく徹頭徹尾美しい舞のアートでした。
一歩抜きんでたのは完全に納得できる結果でした。

このとき、将来も彼女をしのぐアーティストは出ないだろう、
そう思ったものでした。
でも、ザギトワ選手の演技を観て仰天させられました。
キム・ヨナ選手も含め、これまでのフィギュアスケーターたちは、
基本的には二次元で舞っていた。
ところが、ザギトワ選手は三次元の舞を実現している!
(銀メダルの選手も見ました。
美しいけど、残念ながら、どこか沈滞ぎみで、舞が重く、
跳躍の技術においても一歩ひけをとっている感じでした)

自分のパフォーマンスを極限まで持っていく機会、
これがオリンピックという唯一無二のヒノキ舞台の意義です。
こうして、スポーツの歴史が創られてきました。
誰も真似のできない難易度の高い跳躍をたたみかけて、
金メダルを取ったザギトワ選手もその歴史に燦然と輝くでしょう。

ここで、自分の写真のことを思いだしました。
私の方は完璧にずるをしているのかも知れません。
私の好きな人形浄瑠璃のようなものです。
外見には、撮影者である私が写真を撮っているように見えて、
実は、古典レンズたちに撮ってもらっているのですから。

でも、私は知っています、
私が古典レンズの個性でもって写真を脚色しても、
写真家も写真愛好者もその99パーセントは、
ただあきれて、気にも留めないだけ。
そんなものはすべて画像の劣化であって、
現代カメラの完璧なレンズたちが映し出すイメージとは
比較にならないじゃないか!

となると、私も別に「ズル」しているわけではないのでしょう。
ただ、私が時代遅れにずっこけているだけ。
私は、このギャップが楽しくてたまりません。
私は子供の頃から欲のない人間だったようです。
競争で他に抜きんでる、ということに、
ぜんぜん魅力を感じない人間として生きてきました。
幾度も幾度も、そのときの先生から言われました、
「頑張れば、1番にだってなれるのに!
なんで、頑張らないの?」
その都度、なんでがんばらなくちゃいけないの?

写真趣味に入ってすでに40年を軽く越してしまいましたが、
私は、終始、周囲のスタンスは、
存在は無視はできないけど、
でも、写真は高く評価できない、
好きになれない、
訳がわからない、
という感じでした。

今回のエルマーレンズによる写真にも同種の反応でしょう。
おかげで、私は、一人静かに、
古レンズたちが写し出す写真世界に浸ることができます。




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by Sha-Sindbad | 2018-02-25 21:43 | Elmar50/3.5 | Comments(0)

1938 修理代金(2017年10月8日ズマール50㎜F2がほんのり佐保路逍遙)2



ネットを見ている間に、ニューカメラのコマーシャルが出現。
普段は絶対に見ないのですが、なぜか、ちらっと見てしまいました。
なんだかピントをどんぴしゃり合わせてくれるメカニズム搭載。
銀塩時代には絶対に撮れなかったような静止画が次々と出現。
すっかり感心してしまいました。
どこまでユーザーの肩代わりしようっていうの?

初心者がこんな写真を撮ってしまうと、面白いことに、
ああ、このカメラ、レンズはなんてスゴイ機能を備えているか、
なんて風には考えませんね。
「ああ、ぼくって怖い!
天才じゃないかしら?!!!」

私はこんなまるで8000分の1秒で撮ったみたいな、
瞬間の静止画なんて撮りたくありませんね。
人もものも死んでしまっている!
でも、こう感じる私の方が時代遅れ、
写真の歴史に置いてきぼりになっているのでしょう。
今や、人間の目を超えた写真を撮るのが写真家の真骨頂、
というわけでしょう。

私は自分がその場で感じたままに撮りたいですね。
カメラが肉眼を超えてしまったら、
私には無縁のメカニズム。
Cマウントレンズを付けて、完全手動で撮る、
私のお気に入りの道具がOlympus EP-L1。
このカメラが、なんどスイッチオンしても、
「SDカード読み取り不能」とかの表示が出てしまいます。
以前も幾度か起こった現象ですが、その都度、
カードを入れ直したり、電源のオン、オフを繰り返すと、
直っていましたが、ついに、使用不能に。

ヨドバシカメラの修理部に持参しました。
各社のカメラの使用可否を記載した分厚いルーズリーフ。
何百、何千というカメラが出回っている!
Olympus EP-L1はかなり古い。
無理かな?
半ば諦めかけたら、この書類を反対側から見ている私の目に、
「Olympus EP-L1」が飛び込んできました。
逆しまに「34---」と5桁の数字。
ちょっとかかりますが、3万4000円台で治るのです。
ありがたい!

でも、念のため質問、
「たとえば、ただSDカードの読み取りの部分の一部故障、
といった、ちょっとした故障を直すだけだったら、
もっと安いのですか?」
「いえ、どんな場合でも、この料金がかかります。
オーバーホールする場合は、さらにかかります」
なんのことはない、故障した場合でも、
これに便乗して、実費以上はもうけちゃおう、
という精神。

ちょっと鼻白む感じですが、
Olympus EP-L1なんて旧型はもう中古でも中々見つからない。
新しい改良型は、私には無用、有害の高機能満載。
これくらいかかっても、このカメラを使い続けたい!
ああ、同じような現象がソニーα7にも起こるのかな?
もう1つ、買っておこうかな?




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by Sha-Sindbad | 2018-02-23 22:39 | Sumar50/2 | Comments(0)

1937 喫茶店(2017年10月8日ズマール50㎜F2がほんのり佐保路逍遙)1



3ヶ月間、二女の出産もあり、多事多難、家事に忙殺され、
写真はほとんど撮れませんでした。
勢い、ブログの更新もとぎれがちでした。
この2ヶ月ちょっと、二女が第2子の出産で帰郷していたため、
第1子の2歳半の孫プリンセス第2号に心を奪われていた、
そのせいもかなり大きいですね。

疾風怒濤に家中暴れ回るいたずらっ子なのですが、
なにしろ孫です、目に入れても痛くないうえ、
孫もこちらの気持ちが分かっているから、さあ、大変。
毎日、孫の怒濤をなんとか凌ぐだけでも一苦労。

昨日、孫プリンセス3号も4キロを超えて丸々と成長し、
一家そろって無事帰宅しました。
今朝はひさしぶりの静寂に、半ば戸惑い、半ば安堵。

さっそく途切れていたブログ更新の作業。
今回はライカの軟調レンズ、ズマール50㎜F2。
親友のDAさんと佐保路を歩きました。
4ヶ月以上前なのですから、もう一昔、という感じ。

近鉄京都線の平城駅前の喫茶店で一休みしました。
ご主人は洒脱気さくな人物、
ときにライブも企画するそうです。
店内はなかなか凝っています。
ご主人の許可を得て、撮らせて頂きました。
まずは、その店内ロボグラフィから始めて、
続けて、佐保路ロボグラフィをごらん頂きましょう。




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by Sha-Sindbad | 2018-02-19 12:06 | Sumar50/2 | Comments(0)

1936 古なじみ(2017年10月4日エルマー50㎜F3.5が新大阪をちらり一瞥)3-完-


エルマー50mmF3.5
一部のユーザーの間では
ライカ標準レンズとして伝説的な名声を保っているようです。
ただし、どうやらたくさんのバージョンがあるようで、
エルマーにのめり込んでしまったユーザーの中には、
様々のバージョンを収集して、
通の間で、その味わいの違いを語り合ったり、
各バージョンの優劣を議論したりするのが趣味とか。

私は偶然手に入れたバージョンだけで満足しています。
その描写力はかなりのものです。
私のエルマーは、すでに書きましたが、
推定1931年のころのものですから、かなり古いものです。
でも、撮る度に、私よりもはるかに年上のエルマー老に
敬意を感じないわけにはまいりません。

何度も使ってみても、まず感じることは、
このレンズの描写って、重からず、軽からず、
色彩はとても落ち着いて、
なんとも心を温めてくれる風合いに満ちているということ。
人を瞠目させるようなけれん身はけっしてなく、
むしろ中庸を得ています。

このレンズを常用している人って、
かなり落ち着きのある性格の人物なんじゃないかな?
私は、中庸とはほど遠い、熱狂に生きてきた人間ですが、
ただし、熱しやすくさめやすいわけではありません。
愛するともう長年にわたり愛し続ける、という感じ。
でも、エルマーを何にも増して愛しているとは言いがたい。
むしろ、離れていても忘れがたい大切な友人、という感じ。
だから、こうして、たまに一緒にぶらついてみる、
そして、古なじみはやっぱりいいなと、確かめる、
そんな関係と言えそうです。



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by Sha-Sindbad | 2018-02-14 21:41 | Elmar50/3.5 | Comments(0)

1935 いつもの路傍で(2017年10月4日エルマー50㎜F3.5が新大阪をちらり一瞥)2


目下二女とその子である孫二人が滞在中です。
孫は、姉が2歳7ヶ月、妹が生後1ヶ月。
この末っ子の出産を奈良の名医の産婦人科で無事済ませました。
約2ヶ月の滞在ですが、
私がいつも孫プリンセス2号と呼んでいる長女、
その間に心身ともに飛躍的に成長しました。
思考、行動ともに、2歳とは思えないほどに成長しています。
外観以外は、幼児ではありません。
普通に会話できます。
回答したり、提案したりするとき、
これこれこれだから、今は××はしない、
今はこれこれのことをしたいので、××は後でする、
といった風に、必ず理由を明晰に説明します。
状況をしっかり把握し、行動理由や動機を明晰に分析できます。
自然に、こちらも同じ土俵で孫の理性に訴える方法で対話します。

大人相手でもこうはなかなか行かないものです。
「バベルの塔」と同じ混乱が人間関係を複雑にしています。
同じ土俵に乗ってくれない人があまりにも多い。
社会、教育、政治がただの歯車、ただの反射で動く人間を生み出し、
理性的な思考、行動をできる人が少なくなっているからではないか、
そんな感じがしています。
日本の首相やアメリカの大統領を観ていると、
政治家の劣化は世界的現象らしいとさえ感じます。
劣化しているのは政治家だけじゃありませんが......

今や、ロボットが人間の職業を代替し始めているようです。
ロボットが人間に代替出来ない職業があるだろうか?
いつかほとんどの人間がロボットに職を奪われるのではないか?
さまざまに危惧を呼んでいるようです。
心配はありません。
ロボットが人間に代替出来ない仕事が仮にあるとしても、
そんな仕事をする人間を支配する仕事ならロボットにもできそう。
いつか人間がロボットを駆使するのではなく、
ロボットが人間を駆使する時代が来るかも知れません。
いや、きっと来るでしょう。
人間には抱握できないほどの限りないデータを、
ロボットは瞬時に抱握して、
人間には不可能なほどの困難複雑な決定を下せるようになるでしょうから。
「猿の惑星」ならぬ「ロボットの惑星」こそ、地球の未来かも?

そのような時代には、ロボグラフィが流行するでしょう。
ただし、私の言う「路傍写真」ではなく、
「ロボット視覚情報の収集」がロボグラフィということになりそう?

私は、ロボットが処理しようと思わない視覚情報を探知して、
「私のロボグラフィ」として楽しむことにいたしましょう。
エルマー50㎜F3.5は第二次世界大戦前のいわば古代レンズ。
ライカレンズらしく見事な情報処理能力を備えていますが、
どこかに古風を忍ばせている気配。
ボケ味も茫洋として、どこか「抜け」が鈍いのですが、
現代レンズが欠点として始末しようとしているあたりに、
私の心を喜ばせる魅力が漂うようです。
写真家の皆さんは、ご自分の才能を輝かせるために、
欠点のないレンズを追求し、
私は、レンズの味わいを1人楽しみたいがために、
独自の欠点をできるだけ沢山秘めている、
いわば過渡期のレンズたちをことさらに追求する。
このギャップは大きいようですね。


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by Sha-Sindbad | 2018-02-13 10:59 | Elmar50/3.5 | Comments(0)

1934 外観だけ?(2017年10月4日エルマー50㎜F3.5が新大阪をちらり一瞥)1


10月4日はいつもの通り、劉継紅先生の二胡レッスン。
合間に、いつも携行するカメラでロボグラフィも撮ります。

念のため書いておきますが、
「ロボグラフィ」は私の勝手な造語です。
「路傍」+「写真」=Robou+Photography=Robography
何人か、一生懸命辞書、辞典類を調べたけど、無駄だったそうです。
まだ、成語とは認定されていない、ということですね。

二胡のレッスン場であるココプラザ1階のロビーでも撮ります。
どうやらスーパーリアリズムの画家の個展のパンフもありました。
今回の写真の一枚です。
大路誠という方です。
パンフレットの絵はこの方の代表作の一つなのでしょうか?
でも、現代のスーパーリアリズムの画家の女性ポートレートらしく、
画家を意識してポーズする、ただのおねえちゃん、
そんな感じしかしません。

いつも感じることが一つあります。
ほとんどの場合、生活感がなく、ただ単にモデルさんを描いた、
そんな印象の作品が大変に多いのです。
これがために、なんだか写真館のポートレートじみた感じで、
生活感がなく、女性に「人生を生きている」印象が皆無、
そんな作品が多いのです。
これじゃ、人間の本質、人生を描くアートとしての実質はない、
私はそう感じてしまいます。

近頃、ストリートフォトの写真家が、まず声を掛けてから、
というやり方をする方がかなり多いようです。
カルティエ=ブレッソンも木村伊兵衛も土門拳も森山大道も、
その他のスナップショットの写真家たちも、
そんなことはしませんでした。
すべてすれ違いざまの電光石火のワンショット。
「盗み撮り」ではありません。
公道上の人間にはプライバシーはありません。
写真家には、いかなる意味でも、
不法な意思も行為もありません。
なにも盗んでいません。
眼差しを走らせるのと、まったく同一の行為。
そうであって、はじめて人間的真実を写真に収められる。
「撮ってもいいですか?」と声を掛けて撮るのは、
スナップショットではなく、記念撮影。
ストリート作家は写真屋さんではありません。

それを「プライバシー」とか「肖像権」の侵害と論じる、
これは実のところ、憲法でもその他の法律でも、
まったく保護されていない、つまり、
法律が保護するに値すると認めない権利を、
憲法が保障する「表現の自由」の上に置くものなのです。
どなたか、路上を歩いていたら、勝手に写真を撮られた、
ということで、裁判所に訴えてご覧なさい。
「お笑いぐさ」に終わってしまうでしょう。
あなたの訴えを根拠づける法律なんか、
どこにもないのですから。

もしあなたがストリートで人を撮ることに躊躇を覚えるのでしたら、
悪いことは言いません、
スナップショットは諦めましょう。
あなたは向いていない。
肖像写真専門か、風景写真に転向なさるのがよろしいでしょう。

スーパーリアリズムの絵画はおそらくわざと、
ポートレート写真まがいの設定をとることで、
疑似現実感を出そうとしているのでしょう。
でも、モデルさんたちには申し訳ないのですが、
彼女たちには、そのような労力を費やして描出するに足りる、
つまり、絵にする価値のある人間的魅力も存在感も皆無、
スーパーリアリズムに人生なんか見つからない、
そんな感じがいつもしてしまいます。

偉大な肖像画、
たとえば、モナリザにせよ、レンブラントの作品によせ、
フェルメールの「真珠の首飾りの少女」にせよ、
描かれている人物には描かれるに足りるだけのなにかがあります。
それが人間の真実を描写するアートです。
そこには「心」が描かれています。
スーパーリアリズムの多くの作品はただの外観しかありません。
「心」などどこにもない。

スーパーリアリズムの画家の皆さんに言いたいですね。
アーチストになりたかったら、
「外観」にこだわるのはよしたらどうですか?
セザンヌがリンゴを描いたら、
私たちはそこに人生を感じます。
ピカソの抽象画からは生のエネルギーが噴出してきます。
それが芸術ではありませんか?
あなた方の絵には、そこに描かれた外観しかありません。
ただ、それだけ。
それじゃ空しいじゃありませんか?




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by Sha-Sindbad | 2018-02-11 22:28 | Elmar50/3.5 | Comments(0)

1933 石仏の祈り(2017年10月2日ペッツヴァール58㎜F2.3が西大寺で花の乱)2-完-


私は宗教的信仰を一切持っていません。
たとえば、神社を訪れて拝殿の前に立つと、
あなたはどうしますか?
手を合わせますね。
大抵の方がそうします。
信仰がなくても?
なぜ?
それは人様々でしょう。

私は手を合わせません。
自分が信じないのに、信じているかのような行動をとる、
それができません。

でも、何を見ても、そこに魂、心、精神が備わっているように感じます。
どうやらアニミズムは心の隅にしっかり根付いているようです。
私は、信仰とは関係がない、そう考えています。
私の心の中の動き。
一種の類推かも知れません。
私には魂、心、精神が備わっている。
だとすると、他のすべての人、ものにも魂、心、精神が備わっている、
そうでないはずがない。

人は人、ものはもの、そう考える人も多いでしょう。
信仰のあるなしにかかわらず。
でも、A.N.ホワイトヘッドはこう主張しました、
すべてのActual entity、出来事の中核となる存在には、
mental pole(精神極)とphysical pole(物質極)が備わっている。
「すべて」です、人間だけじゃありません。

至るところで、私は石仏を撮らせていただきます。
なにかを感じます。
いつ、誰が創ったのでしょう?
その人は祈りの気持ちを込めて彫り上げたのでしょう。
その祈りは今なお生き続けています。
石仏が内に秘めた祈りの尊さは、
大仏や月光菩薩にも劣らないのではないか、とさえ、感じます。
なぜ?
雨の日も嵐の日も晴れの日もそこに座したまま、
あたかも祈りを捧げるような敬虔な眼差しで世界を見てきたから。
すべての体験を体に刻みつつ、そこに在り続けていまるから。

ペッツヴァールはそんな私の気持ちを見事に写真に刻み込んでくれます。
こうして使い込んできますと、
私にとって、この58㎜は、私が使ったペッツヴァールの中でも、
白眉、そんな気持ちが定着しつつあります。




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by Sha-Sindbad | 2018-02-08 22:26 | petzval58/2.3 | Comments(0)

1932 雨の日(2017年10月2日ペッツヴァール58㎜F2.3が西大寺で花の乱)1


2年7か月の孫プリンセスが食卓に輪ゴムを三つ置いて、
にっこりつぶやきました、
「おじさん」
上の2つの○が目、下の1つが口。
実にシンプルな顔認識です。
長女の長男である6歳の孫プリンスとこの子がどうやら、
私のあらゆるものになにか別の生き物、別の存在を見る、
才能と言うか、厄介な癖と言うか、
そんな遺伝子を継いでいます。

前にも別ブログ「わが友ホロゴン」で書いたかも知れません。
一つ簡単な実験があります。
名刺大の紙の長辺を3回折ります。
すると、横から見ると、「M」もしくは「W」の形。
これを手のひらの載せます。
陰影ができるので、4つの平面がしっかり見えています。
この「M」なり「W」なりの凹凸を、逆になるように、
自分の見え方をひっくり返えそうとしてください。
突然、ひらりと像が立ち上がります。
この視覚操作が成功すると、
手のひらの上の空間がまるで別世界のように見えるでしょう。
お暇だったら、実験してみてください。

私たちの視覚は、実のところ、
このような作業を終始行っているのです。
そうして、整合性のある視覚像、世界像を作りだしています。
でも、それが対象を常に正確に視覚再現しているかどうかは、
必ずしも保証されていないのです。
そもそもこの世界が客観的にたった一つの外観しか持たない、
なんてことはありえないのです。
まず、一番最初に認識主体が外界を捉える仕方が、
さまざまの存在によって、それぞれまったく異なります。
地球上の一点に位置した認識主体が、たとえば、
アメーバ、尺取り虫、蟻、蛸、サンショウウオ、カエル、ネズミ、
猫、ライオン、ゾウ、人間、鯨、等々、ランダムに列挙してみると、
お分かりでしょう。

人間は、平素は、互いにかなり共通した認識をしています。
でも、それは、2人の青年が歩いていて、
天使のような顔をした、とてもグラマラスな女性とすれ違います。
顔を見合わせて、異口同音にささやきます。
「すごーい!
生まれてから、あんな綺麗な人に会ったことがない!」
でも、1人は顔に、もう1人は体に心を奪われていて、
受けた印象、記憶はまるで共通しないかも知れません。

私のロボグラフィって、そんなものです。
あなたが私と一緒に歩いていて、路傍で私の被写体に出会っても、
私、「わっ、きみはぼくを待っていてくれたんだね!」
あなた、「なにを騒いでるの? ただの薄汚い地面じゃないの!」
私はあなたがそのとき何をどう見たか、分からないし、
あなたは私がそのとき心ときめくロボグラフィに対面したなんて、
分からない。
私はあなたの気持ちが分からないし、
あなたは私の気持ちがわからないのです。

もし、あなたと私とが同じデジタルカメラセットを持っていて、
その方向を向いて写真を撮ったら、
同じものが同じように撮れるでしょう。
それぞれに現代レンズが克服したさまざまな偏頗な性格があるために、
まったく異質な写り方をしてくれるクラシックレンズだから、
私のその瞬間感じたロボグラフィ性を再現してくれる、
私はそう信じています。

でも、練達の写真家なら、現代レンズであっても、
そこにある異貌の光景を写し取ることができるでしょう。
私はそんな才能は皆無なので、レンズ頼り。
私の場合は、古代レンズあってのロボグラフィ、
私はそう信じています。

中将姫光学さんにお借りしているペッツヴァール58㎜F2.3は、
なんでもないうらぶれた地方都市のなんでもない裏通りで、
バンバンとロボグラフィを見つけ出してくれます。
私に別の目を与えてくれる、
それがペッツヴァールの面白さ、
私はそう信じています。




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by Sha-Sindbad | 2018-02-06 21:15 | petzval58/2.3 | Comments(0)

1931 里(2017年10月3日アンジェニュー28mmF3.5で家の近場を巡回)4-完-記憶のよすが


写真って、ありがたいですね。
とくに、私のロボグラフィのように、
そぞろ歩きで出会ったものたち、シーンを、
見やった瞬間に、さっと撮っては立ち去るというスタンスでは、
写真たちはタイムマシーンになります。

大抵の方は定番の道具をお使いになっているでしょう。
私は、日替わりで、クラシックレンズを使います。
写真作品を創るためには、前者のやり方が必須でしょう。
私のロボグラフィは、私の出会いの記録なのですから、
安定した作風など邪魔になるだけ。
素直に反応するだけで十分。

そのとき、オールドレンズの個性的な描写特性、
とくに、現代の標準に照らすと、明らかな欠陥、
そんなレンズが写真に刻印してくれるさまざまな描写上の歪みが、
私の心の記憶を甦らせるキーとなってくれる、
そんな感じがしています。

アンジェニューレンズなど、その最たるもの。
後日、写真を見ると、
ああ、あのときはアンジェニュー28㎜F3.5でこれを撮ったんだ、
ということが記憶のよすがとなって、情景を想起させてくれます。
私だけの記憶の重要なファクターなのです。




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by Sha-Sindbad | 2018-02-04 21:54 | Anjenieux28/3.5 | Comments(0)

1930 里(2017年10月3日アンジェニュー28mmF3.5で家の近場を巡回)3 虚実の皮膜


酷寒の朝が続きます。
先日京都を久しぶりに撮影した際も、
ソニーα7を使ったのですが、カメラ自体が冷えきって、
電池はあっという間に消耗してしまいました。
電池2個を冷気によって無駄に無力化された後で、
薬局に飛び込んで、小型ホッカイロを購入。
予備電池の袋に2個入れて、電池を温め、
お陰様で無事撮影を続けることができました。

今日も、昼食後の出発だったので、多寡をくくったか、
それとも、物忘れがひどくなってきたのか、
その教訓を忘れて、冷えたソニーα7片手に出発。
残量計は45%を示していたのに、数分でアウト。
大急ぎで、ホッカイロを電池袋に放り込み、
今回も無事撮影を終えることができました。

奈良町伝いに県立図書館まで撮影しました。
木曜日なので、奈良町の80%のお店が休業。
お目当ての行きつけ喫茶店2店はどちらも閉店。
まず図書館に直行しました。
何冊か、本を借りよう、そう考えていたのですが、
お目当てがあったわけではなく、
書棚をぐるぐると回って物色しましたが、
ついに関心を覚える本に出会えませんでした。
これにはショックでした。

そして、遅ればせながら気づいたのですが、
私が心から欲する書物は、読み終わったり、
保有したりしているもの以外にはほとんどない!
そうだ、自分の本を読もう!
ということで、結局、落語CD5巻を借りました。
全部、二代目桂枝雀の落語。
なぜ桂枝雀なのか?
それは別ブログ「わが友ホロゴン」に書きます。

こちらはレンズブログなので、使用レンズのことを書きます。
中将姫光学さんにお借りしたままになっている、
スピードパンクロ50㎜F2。
ああ、凄いレンズですね。
実在感が横溢しているのに、そのままそっくり幻想世界に、
そんな異界の気配が一枚薄皮となって
リアリティの上にふんわり被さっている、
そんな雰囲気がたまらない魅力を醸し出しています。

実のところ、アンジェニューレンズと対照的なのです。
アンジェニュー28mmF3.5はかなり幻想的なたたずまい。
でも、その陰から、リアリティがすっと突き抜けて来る、
そんな印象をとかく抱きます。

結局は、レンズが画像のどんな要素をクローズアップするか、
ということでしょう。
クローズアップされるファクターは幻想であってほしい、
それが私の好みであり、精神的な傾斜、と言えそうです。

ついでに、書いておきます。
ちょっと嬉しいことがありました。
図書館の前の喫茶店に入って、45分間、休息。
いつもどおり、ウォークマンで音楽を聴きながら、
ポメラでブログ掲載用の雑文を書きなぐったのですが、
かなり好調に筆が進みました、
というか、タイピングが進みました。
レジを済ませ、おトイレを借りました。
実は、チェックしたかったのです。
前回、と言っても、数ヶ月前ですが、
トイレットペーパーのロールを覆う棚をそっと抑えました。
前回貼ってあった注意書きが依然としてついていました、
「押さえないでください。棚が落ちます」
押さえてみました。
以前はへなへなだったのに、がっしりしてビクともしません。
棚の下を除いて、にっこり。
前回、か弱いL字の支えしかないのを気遣って、
私が若い女主人にアドバイスしたのです。
「棚の中央にがっちりしたL字の支えを一つ入れましょう。
それで、誰が押さえても、落ちることはなくなります」
トイレから出ると、女主人がレジから出て来て、
立っていて、にっこり。
「ありがとうございました。おかげさまで」
私のアドバイスを素直に試してくれたこと、
私のような平凡で目立たない人間を覚えていてくれたこと、
どちらも嬉しいことでした。




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by Sha-Sindbad | 2018-02-01 22:21 | Anjenieux28/3.5 | Comments(0)