2100 時代遅れ(2018年2月22日パンタッカー50㎜F2.3は西九条を何度撮影したことか?)
写真アートが本格的にアートの世界に地歩を築いたのは、
20世紀初頭からでしょう。
それとともに、写真趣味も普及し始めました。
よほどの才能がある人でない限り、
写真趣味が写真家的な作品作りに発展することは極めて難しいあたり、
絵画や音楽とも共通性がありました。
素人は素人、とてもアーチストのパフォーマンスには近づけませんでした。
でも、完全自動カメラからさらに進んで電子カメラ化され、
Photoshopなどの画像処理ソフトが普及する現代に至って、
表面的にではありますが、そうした障壁は崩れ去った感があります。
修業時代は不要となり、
初心者があっと言う間に、自分は天性写真家なのだと思い込み、
大家然と振る舞う時代になってしまいました。
フィルムカメラの時代、
経験者、さらには大家の持つ体験、センスの重みは圧倒的でした。
経験、修行、師匠の重みがものを言った時代でした。
だから、一丁前に作品を作るなんて、容易に実現できない夢。
だから、長年の実績がある写真家からなんらかの教え、
ヒントを受けることには大きな価値がありました。
デジカメ時代になると、
そんな体験の積み重ね、修業はほとんど無意味と化しました、
というより、そう見えるようになりました。
カメラや画像処理ソフトが、苦しい修業の代わりに、
凄い画像をプレゼントしてくれるのですから。
アルティエ=ブレッソンのモノクローム作品に接したデジカメ女性が、
ブログに自信たっぷりに書きました、
「まあ、許せる範囲かも?」
別のデジカメ写真家が、
「ブレッソンって、どうしてぶれた写真を作品でございと発表しているのでしょう?」
畳一枚ほどならいくらでも伸ばせる超精密デジタル写真をいつも撮っているので、
それができない過去の写真家の写真作品などまるで参考にならないのです。
こんな人は、カルティエ=ブレッソンが撮った写真を
トリミングなしに作品として発表したと聴いたら、
きっとこういうでしょう。
「バカなこだわりだね。
分かってないんだねえ。
パソコンの前に座ってからが勝負なのに、ねえ!」
私は、写真芸術は滅びつつあると思っています。
カルティエ=ブレッソンや木村伊兵衛のような、
味わい豊かなストリートフォト、ドキュメンタリーは、
創る人がいなくなったばかりではなく、
その価値を認める人も居なくなりつつあるのですから。
かつてフォトグラフィが「写真」と訳されたのは、
写真は現実のあるがままの記録として無限の価値があると考えられたためでしょう。
今、デジタル写真も映画もコンピューターグラフィックス、
完全なフィクションとなってしまいました。
私もその潮流に押し流されて、デジタル写真の海にアップアップしています。
いかなる創作意図もないまま、眺めた瞬間、シャッターを押し、
記録されたデジタルデータそのものを最低限レベル補正したりしなかったりして、
一記事を構成する写真群を平準化するだけ、というのが私の写真なのですが、
画像処理ソフトでいじり倒したデジタル作品との間に、
はっきりとした懸隔があるわけでなく、
結局、私もデジタル写真の制約の下に写真趣味を楽しんでいるわけです。
価値は制限から生まれるものです。
フィリム写真時代の写真家は、
フィルムに焼き付けられたシーンを変改することはほとんどできないから、
撮影行動の一瞬一瞬が取り返しのつかない1本勝負だったのです。
だから、写真に気合いが入り、面白かった。
現代のデジタル処理画像は、申し訳ありませんが、
まるで腰が据わっていません。
ああ、時代は変わるものですね。
というより、むしろ無限に退行していくものですね。
人間も、小賢しい才子ばかりで、
西郷隆盛や坂本龍馬のような時代を突き抜ける大物は
絶対に現れない、現れようとしても、寄ってたかって潰される、
そんな袋小路の末世になってしまいました。
気が滅入るので、レンズの話に戻りましょう。
アストロ・ベルリンの映画用レンズ、
パンタッカー50㎜F2.3。
私のセカンドエース。
例の通り、画像処理は最低限レベル補正にとどめ、
私の30年来の「5つのノー」、
ノーメイキング
ノーウェインティング
ノーシンキング
ノートリミング
ノーファインダー
これを可能な限り遵守しています。
ただし、超接近はさすがに置きピンでは撮れないので、
ファインダーをピント合わせのための拡大画面にしたままにして、
ピントを合わせたい部分のピントと合わせたら、
即時、画像全体を見ることなく、シャッターを切っています。
なぜ、そんなことをするの?
しっかりファインダーで構図をチェックするのが作品作りの基本じゃないの?
そうおっしゃる方もおいででしょう。
私の回答はシンプルです。
① 私は写真作品なんか創っていません。
② 人に見せる目的は一切ありません。
じゃ、このブログはなんなの?
これは日記です。
それじゃ、閲覧不可にすればいいじゃないの?
友人への通信でもあります。
こうして、元気に生きてるぞ!
心配するなよ!
純然たる閲覧不可の昔風日記になったら、
緊張感を失い、あっという間に、無期限休止になるでしょう。
だから、そんなことをするつもりはありません。
そんな設定にしなくとも、
長大な駄文、無数の駄写真のおかげで、
偶然の検索結果で訪問する方以外には誰も来なくなりました。
おかげで、平安の人生を送れます。
つまるところ、私の2つのブログは、未来の私に当てたラブレター。
ただし、あまりにも膨大な上、
近いうちに、エキサイトがブログ事業から撤退し、
世界のブロガーユーザーをさらりと斬って捨ててしまうでしょう。
ブログは、正真正銘、自由な精神からのメッセージの場です。
独裁者が民衆をほしいままに操作する障害になるだけなのですから。
というわけで、私のブログは、私にとっては、
未来の私が読み返すことはほとんど期待できないラブレター。
そんなブログでも、こうして記事を用意する時間は、
私にとってなにものにも代えがたい貴重な一時なのです。
by Sha-Sindbad
| 2019-07-21 23:28
| Pan.Tachar50/2.3
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