2076 威風堂々(2018年11月18日ホロゴン15㎜F8が奈良町を闊歩して)
この頃、素敵な言葉がよく見つかります。
「藁屋に名馬を繋ぎたるがよし」
室町の茶人、村田珠光の言葉だそうです。
同種の馬群の中を駈けていると、観る人が観れば分かるのでしょうけど、
観る目のない人には、どれが名馬でどれが駄馬か、分からないものです。
でも、藁屋にただ一頭繋がれている姿を見れば、
誰の目にも名馬のただならぬ輝きには目を見張るでしょう。
アートはすべてコントラストが鍵です。
というより、この世界のすべてはコントラストが鍵です。
ホワイトヘッドは、存在が創造的に変化していく鍵はコントラストにあるとしました。
どんな存在も安定、静止は堕落に通じます。
生きるためには変化し、向上するしかないのです。
トインビーは文明の誕生、発展の鍵は「挑戦と応戦」にあるとしました。
彼の名句は「オールを休めると、文明は滅亡する」
人間もそうですね。
オールを休めると、失速し、老化し、死に至ります。
無敵の勝者がいつか無残にも一敗地にまみれる運命に見舞われるのは、
新しい状況に、かつて無敵であった手法をいつまでも使い続けようとするためです。
死ぬまで失速したり老いたりしたくなければ、オールをこぎ続けること、
どんどんと革新していくこと、これしかないのです。
あなた、テレビづけになっていませんか?
新しい情報を手に入れたい?
だったら、パソコンで十分。
しかも、そんな新しい情報があなたにどれだけ役に立ちますか?
泡と消えて行って、昨日のニュースがなんだったか覚えていますか?
生きることはニュースを追い求めることではありません。
自分自身の成長に役立つなにかを手に入れ、変化し続けること、成長し続けること、
ではありませんか?
ホワイトヘッドの最重要のコンセプトは「新しさnovelty」でした。
旧套墨守は退歩の引き金、
新しさが躍進の引き金、というわけです。
でも、新しさは従来の生活、従来の見方の延長上には見つかりません。
まったく新しい場に自分をどんどん自分を置いていかない限り、
新しさに直面することはできません。
こんな風に考えると、はたと気づきます。
私のように、どこにも行かないで、いつも同じ場所で写真を撮っている人間に、
新しさはどこにあるでしょう。
どこにもないかも知れません。
でも、私のモチベーションは落ちません。
新しさは外になくてもよい、
内に新しさを感じることだって、できるはず、私はそう考えたいのです。
私のロボグラフィに新しさなどありません。
私にとっては、写真としての新しさなど無関係。
私は写真家ではないのです。
自分の人生に写真を活かしたいだけ。
私にとっては、今日、このロボグラフィに出会ったこと、
それが新しい体験。
こんな私に、村田珠光の「藁屋に名馬を繋ぎたるがよし」はどんな意味を持つか?
私は「人生、意気に感ず」という言葉が大好きです。
余談ですが、古代から中国人が一番大事にしてきた価値はなんだと思いますか?
私は「義」だと思います。
「義を見てせざるは勇なきなり」
これも名言ですね。
司馬遷の史記が今なお私たちの心をときめかせ続けるのは、
中国人が文字通りこの言葉を生きてきたからですね。
一度約束したら、生涯守り続ける、
状況の変化なんていう現実主義はとらない、これが古代中国人でした。
諸葛孔明なんて、自分を見いだしてくれた劉備との約束を守り続けることで、
一生義を守り、義に死んだ人間ですが、
そのような人が文字通り山ほど居るのが中国史の面白さです。
私もそんな人間でありたいと願ってきました。その一つの実行が、「始めたことはやめない」です。
妻と一生生き続ける、というのが、私にとって最も大切な義なのですが、
このいわば大義に続いて守ってきたのが、
実のところ、写真を愛し続けることでした。
(音楽への愛情は実のところ妻よりも古いのですが、
これは妻も同様なので、お互い、許し合っているわけです)
職業生活の日々は長く厳しい時代ですが、
それを一度もくじけずに、心身を壊さず生き延びることができたのは、
どんなに忙しくても、どんなに仕事が待っていても、
毎週末には撮影に出て、ロボグラフィをとり続けたことでした。
風景写真家はどうやら季節に左右されるようです。
季節ごとに被写体となる風景を追い求めるのですが、
たとえば、冬枯れともなると、長い休眠に入ることとなります。
目的地の往還はひたすら移動だけ。
ロボグラフィは違います。
一歩家を出た瞬間から撮影は始まります。
そして、家に入る瞬間まで撮影が続きます。
観ることは、ロボグラフィと出会うこと、
そして、ロボグラフィはどこにでも隠れているのですから。
「藁屋に名馬を繋ぎたるがよし」
なんでもない道ばたにはそんな名馬が待っているのです。
私にとって、「名馬」とは、私をはっとさせる存在。
やあやあ、そんなところで、頑張ってるじゃないか!
そう感じさせてくれるものたち、それがロボグラフィ。
私の写真は全部そんなロボグラフィ。
そして、私も社会の中で、
道ばたのロボグラフィとまったく同じ存在です。
誰も私のことなど気にとめない。
誰も私のことを忘れている。
でも、私の心は生き生きと躍動しています。
私は、体格も普通で、容貌、容姿はさえず、
風采の全然上がらない人間ですが、
でも、目だけは生き生きしています。
どの瞬間、どの場所でロボグラフィたちに出会えるか、
完全に予測不能の人生なので、
油断できず、心をわくわくさせて周囲を観察しつつ歩き回っているのですから、
私にとっては、「途中」というものがありません。
絶頂体験の可能性を秘めた瞬間で満ちている!
こんな風に感じられるようになったのも、
私が常に写真でその体験を記録できるという態勢を創り出したからです。
どんな人も自分の好きなこととなると、
目が輝き、動作がキビキビとしはじめます。
私にとって、全瞬間がそれなのですから、
ずっと私の心は生き生きとし続けている。
自分で意識的に生み出した生き方ではありません。
私の人生にいつしか染みついた生き方です。
だから、私にとっては本物。
ホロゴンをソニーα7に付けて、
奈良町を歩きました。
他のどんなレンズとも異なる描写をプレゼントしてくれます。
完璧に近い補正が施された現代レンズの愛用者には、
容認しがたい癖の画像でしょう。
私のブログ写真など、現代のほとんどのアマチュアカメラマンの目には、
容認しがたいほど稚拙な失敗画像と映っていることは、私も承知しています。
それでよいのです。
おかげで、私はひっそりと自分のブログ日記を楽しめます。
by Sha-Sindbad
| 2019-04-18 23:24
| Hologon15/8
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