1241 JR奈良駅まで (ダルメイヤー25mmF1.9はペッツバール型らしく)
昨日は、天王寺を撮影しました。
サブに持ち出したのがオリンパスE-PL1。
レンズはダルメイヤー25mmF1.9。
我が家からJR奈良駅まで16枚撮りました。
バス停での待ち時間と走るバス車内からの撮影。
全部ご覧頂きましょう。
ふんわりとフレアがかかり、
とても柔和な雰囲気を醸し出してくれます。
でも、中央の主題部分は見事に決まります。
これまで、このレンズを大いに気に入って使ってきたのですが、
ペッツバール型レンズであるからではなく、
ただ描写が気に入っただけ。
でも、改めて中将姫光学さんやksmtさんの愛好する
ペッツバールレンズたちと通じるところのある描写性なのだと分かると、
ああ、19世紀の香りが幾分なりとも混じっているのだなあと感じて、
いや増しに愛情を感じてしまいます。
(最初から分かって、そのことを記載していたのですが、
私にとってはただの知識に過ぎなかったというわけです。
今はそれが私の心をそそる実感となったということ。)
私のこんな気持ちを感じ取ったせいか、
このレンズの写真たち、うれしそうですね。
「そう、ぼくには古い血が流れていて、
そんな血がものを特別な見方で見させてくれるんだよ」
そう言っているようです。
[後書き]
私はパソコンでの写真修正は1点だけ。
その1点は、すべての写真の濃度を一定に直すこと。
レベル補正だけ使います。
私の濃度基準はホロゴン写真。
銀塩ポジでのマイナス1.5から2が私のお好み。
だから、銀塩カメラは、すべて自動露出などないので、
脳内露出計がその濃度に自動的に設定してくれます。
私のフィルムは完全に同じ濃さにあがります。
デジタルホロゴンの場合、
カメラの濃度を標準マイナス1.7に設定。
すべてのレンズをだいたいそのあたりに設定して撮ります。
液晶をチェックして、濃度の設定を微調整します。
それでも、パソコンで開いた画像は、
ホロゴン基準から離れていることがあります。
そんなとき、レベル補正で、私のお好みの濃度に調整します。
それ以外は一切手をつけません。
もちろんトリミングもしません。
このレンズもホロゴン基準に合わせて濃度を修正してきました。
今回、その修正をやめました。
ただし、iPhoneで見たとき、
私の本来の設定濃度よりもかなり薄めになります。
だから、レベル補正の左の黒▲を山形の曲線の麓までずらす、
この作業だけはしました。
by Sha-Sindbad
| 2015-01-25 12:00
| Dallmeyer25/1.9
|
Comments(1)
Commented
by
petzval
at 2015-01-25 19:42
x
ダルメイヤー25mm f1.9万歳!
その昔、蓄音機を初めて聴いた人は
ラッパの奥で歌手が歌ってる!と勘違いし、
肖像写真を撮ってもらう時、
魂を取られる!と勘違いした。。。
現代人は笑いながら「昔の人は幼稚で単純だった」と言う。
本当にそうだろうか?と私などは思います。
人間とは「未練たらしい動物」です。
消え去る音やイメージを何らかの方法でどこかにとどめておいて再生したいのです。これがすべての再生芸術?の根本にあるのだと私は強く信じております。
これだけの説明だと単純に聞こえるでしょうが、実はもっと深いのです。ただ機械的に、あるいは科学的に再生するのでなく、消え去ったはずのものが、今そこに、目の前にあるかのように錯覚したいのです。いつまでもいつまでもそれを握りしめていたいのです。音にしろ、イメージにしろ、これこそが再生の原点なのです。
19世紀の人たちは、恐らくこうは意識してなかったでしょう。ただ、彼らの深層意識にこのことが染みついていたのです。だから、ペッツヴァールもエジソンも恐ろしくリアルな再生装置をつくり出してしまったのだと私は思っています。
こんな主張をすると、アッハッハと笑う人がいます。エジソンの蓄音機の音がリアルだって? ベストのコンディションで痛んでないレコード(円筒管)を聴くなら、このことはイヤと言うほど思い知らされます。
宮崎さんは言われました:
「ペッツヴァールレンズの中心部はシャープ、でも、ただシャープなだけじゃない。。。」
未熟者ではありますが、私に言わせるなら、中心部の像は画面から「浮き出る」のです。まさに「そこにある!」のです。
やがてツァイスが新しいガラスをつくり出し、次に3枚玉が発明され、写真は「隅々までシャープ」に発展して行きます。確かにプロターの質感描写やトリプレットの透明感には惜しみなく拍手を送りたい。でも、イメージは浮き出て来ないで、紙の中に大人しくおさまっているのです。。。
そうは言っても、私はペッツヴァールだけじゃなく、プロターもトリプレットも大好きです。まだ「時代の精神」は薄まっておりません。ただ、その後の時代、特にここ数十年間のレンズや音響再生装置の「進歩」?を見ておりますと、
「ああ、人間はもはや未練たらしくなくなったんだ。。。」
と言ってしまいたくなるのです!
その昔、蓄音機を初めて聴いた人は
ラッパの奥で歌手が歌ってる!と勘違いし、
肖像写真を撮ってもらう時、
魂を取られる!と勘違いした。。。
現代人は笑いながら「昔の人は幼稚で単純だった」と言う。
本当にそうだろうか?と私などは思います。
人間とは「未練たらしい動物」です。
消え去る音やイメージを何らかの方法でどこかにとどめておいて再生したいのです。これがすべての再生芸術?の根本にあるのだと私は強く信じております。
これだけの説明だと単純に聞こえるでしょうが、実はもっと深いのです。ただ機械的に、あるいは科学的に再生するのでなく、消え去ったはずのものが、今そこに、目の前にあるかのように錯覚したいのです。いつまでもいつまでもそれを握りしめていたいのです。音にしろ、イメージにしろ、これこそが再生の原点なのです。
19世紀の人たちは、恐らくこうは意識してなかったでしょう。ただ、彼らの深層意識にこのことが染みついていたのです。だから、ペッツヴァールもエジソンも恐ろしくリアルな再生装置をつくり出してしまったのだと私は思っています。
こんな主張をすると、アッハッハと笑う人がいます。エジソンの蓄音機の音がリアルだって? ベストのコンディションで痛んでないレコード(円筒管)を聴くなら、このことはイヤと言うほど思い知らされます。
宮崎さんは言われました:
「ペッツヴァールレンズの中心部はシャープ、でも、ただシャープなだけじゃない。。。」
未熟者ではありますが、私に言わせるなら、中心部の像は画面から「浮き出る」のです。まさに「そこにある!」のです。
やがてツァイスが新しいガラスをつくり出し、次に3枚玉が発明され、写真は「隅々までシャープ」に発展して行きます。確かにプロターの質感描写やトリプレットの透明感には惜しみなく拍手を送りたい。でも、イメージは浮き出て来ないで、紙の中に大人しくおさまっているのです。。。
そうは言っても、私はペッツヴァールだけじゃなく、プロターもトリプレットも大好きです。まだ「時代の精神」は薄まっておりません。ただ、その後の時代、特にここ数十年間のレンズや音響再生装置の「進歩」?を見ておりますと、
「ああ、人間はもはや未練たらしくなくなったんだ。。。」
と言ってしまいたくなるのです!
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