2095 どこか高級(2019年3月25日トポゴン25mmF4.5の大阪茶屋町の印象は)今がすべて
私が一番最初に持った趣味は音楽でした。
そして、音楽は今でも命。
だけど、私の心身能力、感、と生活スタイルは、
名曲に半時間も一時間もじっと耳を傾けるような、
深い精神性とは無縁になってしまったようです。
今や、300枚ほどのレコード、数百枚のCDは棚の肥やしになって、
私は主にYouTubeで音楽を楽しむ人生。
CDやレコードは購入して聴いてみないと、その音楽が私の人生を豊かにしてくれるか分からない。
でも、YouTubeには、そうしたCD音源もコンサートビデオも、
なぜかそっくりそのまま掲載されているのです。
聴いてみて、あまりに私の心を揺さぶるものがあったら、
CDを購入しています。
グールドは10年越しの最高峰の音楽家ですが、彼に劣らぬ至高の演奏家、
マルタ・アルゲリッチ、ジャクリーヌ・デュプレはそうして出会いました。
近頃、私の心を揺さぶってくれた演奏は、
Beethoven Piano Concerto 3 - Argerich Video
https://www.youtube.com/watch?v=NBoZt6qbo1A
一音一音がなんと繊細で、なんと壮麗で、
しかも、なんとクリエイティブなのでしょう!
若手のハイテクニシャンたちの「私が最高!」
と言わんばかりのぶっとばし奏法とは次元があまりにも違いすぎます。
テクニックは、上には上がある式で積み上がっていきます。
あいつがそうなら、もっとすごい演奏をしてやると、
それを凌ぐアクロバティックなテクニックを磨き上げる世界。
でも、偉大な作曲家の心の奥底深くに沈潜してゆくような、
汲めども尽きぬ深いニュアンスで一音一音を刻み込んで行く、
そんな表現世界はそうしたハイテクニックの遙か上を、
ときには飛天のように、ときには鳳凰のように、ときには飛龍のように、
漂い、浮かび、上昇し、下降し、消えたり、現れたりと、
精神世界の諸相、魂の歌を紡ぎ出してくれます。
一音、一音だけではなく、
音と音の間の沈黙さえもなにかを私たちに伝えてくれます。
このような至高の演奏家たちの最上の演奏は、もしかすると、
作曲家さえも予測できなかった深み、高みに至っているのかもしれません。
写真家にも、そんな偉大な音楽を奏でる天才が居ます。
もちろんカルティエ=ブレッソンもその一人ですが、
そんな写真家たちには、「一期一会」の稀有の瞬間を捉えた至高の体験記録、
そうとしか言いようのない名作が残されています。
現代のように、
まず、ここぞと思う被写体は多段階露出で撮っておきましょう。
そして、あとはPhotoshopのような現像、画像処理ソフトで、
心ゆくまで徹底的に自分の作品を創造しましょう、
というスタンスは、
原稿がたとえ一期一会の出会いの写真であっても、
あまりにも厚化粧が施されてしまって、
現実の出会いの瞬間を素材として作り上げられた
虚構のイメージと化してしまっています。
私は現代は写真芸術の可能性を破壊し廃棄してしまった、
そう考えています。
カルティエ=ブレッソン級の芸術家が生まれる可能性はなくなりました。
写真を題材にしたビジュアルアートしか生まれない。
それはそれで素晴らしいでしょう。
でも、私の心をちっとも感動させないのですから、
世話はありません。
厚化粧と整形ですっかり変貌した美女を、
さらにコンピュータ処理で女神に変身させようという時代と、
そっくり軌を一にしています。
現場とPhotoshop画像とは似てもにつかない。
私のように、自分とその場の出会いを記録にとどめたいという人間には、
これじゃ、記憶になんの役にも立たないではありませんか?
私は、カメラの画像関係の設定項目をすべて最低に落として撮影し、
Photoshopのレベル補正で濃度だけを整えています。
それでも、実のところ、
フィルム時代のナチュラルなニュアンスはほとんど飛んでしまっています。
でも、幸い、私は自分の写真を見たら、その場の情景を、
向かい合っていた自分自身の内面の動きとともに、
まざまざと思い出すことができます。
それができるのは私一人です。
だから、私は、表現を志す写真家ではなく、
ただのド素人の記念撮影レベルなのです。
だから、デジタルカメラ時代になってから、
自分の撮影した写真プリントを人に見せるとしても、
「カメラ、レンズがこんなものを撮ってくれました」と紹介するだけで、
「私が撮りました。私の作品を見てください」
とは絶対に言わなくなったのです。
このブログも、人が辟易して来ないように、
推敲しないままの思いつきの羅列を掲載し、
その後に、数十枚、撮影順に、掲載しているわけです。
しかも、写真と文章とは、大抵の場合、無関係。
でも、私はそれらの断片を使って、
文章は、ただの思いつきを羅列しているだけなのですから、
自分の心の中で一つの記憶に再現することができます。
どなたが読んでも、つまらない駄文でしょう。
おかげで、私は、今では完全にブログ世界からはみ出してしまいました。
だから、安心して自分の記録を蓄積できます。
もっとも、エキサイトブログももうじき消える可能性が高いらしい。
だから、読み直して自分の記憶を新たにするという未来は
まったく期待できないのです。
ブログ投稿の意義は投稿行為という現在にあります。
投稿のために写真を投稿用に作り替え、アップし、
これに適当に自分の文章記録を探して選び出すことで、
一期一会的に自分の記憶に再会しているのです。
つまり、ブログの意義は未来にではなく、
投稿している今にあるのです。
自分の愛しいある時間を生きなおして、その体験を噛みしめる、
社会から完全に引退してしまった私には、
これ位有意義で楽しい時間はない、とさえ言えそうです。
by Sha-Sindbad
| 2019-07-04 12:44
| Topogon25/4
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